国産OS「TRON」の奇跡 Vol.1「TRONの発表と教育用OS採用の裏話」

本当に久しぶりです。

順番で言えば以下の投稿からの続きになりますが、ほぼ単独のエントリーと言っても良いです。

なぜ私はWindowsを使い続けるのか
https://blog.ya-man-work.com/article.php?id=1759487504
https://blog.ya-man-work.com/article.php?id=1763198214

今回の記事を作ろうと思ったのは、いくつか認識違いの動画を見かけたからです。

そうTRON(トロン)です。
リンクは張りませんが、タイトルの一部を載せておきます。

「Windowsに勝利!天才日本人が作った純国産OS【TRON】が世界標準規格に認定」
「Windowsに圧勝!日本製OSがとんでもないことに!」
「米国に潰された?! TRON真実の歴史」
「日本産OSが世界で一番使われているって知ってました?」

うん。日本スゴイ動画達ですね。本当にありがとうございました。

色々とツッコミどころがあるのですが、ただ単に間違いを指摘していくエントリーなんぞなんにも面白みがないので、当時の時代を駆け抜けた生き証人として。私が時代の変遷と共にTRONについて解説していきたいと思います。


■TRONの熱狂?

TRONの概要についてはWikiをひとまず参照してください。https://ja.wikipedia.org/wiki/TRON%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88

名前の由来は一応「The Real-time Operating system Nucleus」(リアルタイムオペレーティングシステム核)とされてますが、前年に公開された世界初のCG長編映画として公開された「トロン」(英名:TRON)をもじったネーミングだと、以前どこかの雑誌記事で見ました。
残念ながらソースはありませんが。

ちなみに初代TRONは映画館でリアタイ視聴しました。CGの出来は今の水準と比べること自体間違ってますが、エポックメイキングであったことは確かです。

その後に学校教育用OSとしてBTRONを採用しようとする動きが起こりました。

1985年、文部省が「教育方法開発特別設備補助」5か年計画で学校へのコンピュータ導入予算を計上。
同時期に通産省も動き、翌1986年に両省が設立したCEC(コンピュータ教育開発センター)が、教育用パソコンのOS標準化を検討。そして通産省が推したのがBTRONでした。

ただし、この時点でBTRONはまだ完成していません。1984年に坂村健教授が発表したのは紙の「仕様書」であり、松下電器を中心とした実際の開発が始まったのは1985年からです。

つまり、まだ動くOSが存在しない段階で、教育用OSの標準として採用しようとしたわけです。

当時すでに国内PC市場はNECのPC-9801(MS-DOS搭載)が8〜9割のシェアを握っており、NECは標準化自体に反対の立場でした。最終的には「MS-DOSでもBTRONでも動くパソコンを作る」ということで合意に至りますが、これは技術的な優劣の判断というより、通産省の「日の丸OS」政策を教育市場に展開するための国策的な動きだったと言えます。

TRONプロジェクトの中で、PC向けOSとして開発されたのがBTRON(ビートロン)で、それを官主導で国産OSを育てる目的で推進したことの背景があります。

当時の教育界隈のコンピューター教育推進の流れは確かにありまして、私の通っていた中学校(85~87)に、コンピューター教育推進のモデル校としてPC-9801が1クラス分(約40台)納入され、試験的に学習カリキュラムがスタートされました。
当時私が所持していたのは中古の8bitホビーパソコンの「X1-F」だったので、16bit機でしかもフロッピー搭載機が触れるので興奮した思い出があります。

しかし、私の学年ではさほど実習時間が取られず、私が受けた授業は、ほんの3授業単位くらいでした。
授業内容も表計算ソフトの実習のみ。アプリケーションは「Microsoft Multiplan」(マルチプラン)1982年にマイクロソフトがリリースしたExcelの直接的な前身ソフトです。

当時のデファクトスタンダード(事実上の標準)は「Lotus 1-2-3」でしたが、マルチプランにしたのは予算の都合でしょうかね?
ロータスはJustSystemのワープロソフト「一太郎」と共に定番のソフトウェアでした。時代ですね。

つまり、文部省主導の教育コンピューター構想はあったものの、実際の取り組みは温度や方針が、様々な様相を呈していたのです。


■TRON叩きは存在したのか?

その後、BTRONマシンの試作機・展示がされました。

1987年3月:松下電器が最初の試作機を公開
この段階ではBTRONの仕様・実装共に未完成

1987年7月:文部省が学習指導要領を改定し中学校の「技術・家庭科」に「情報基礎」を加えたのと足並みを揃えるように、CECが教育用パソコンを中学校に導入することを決め、試作機の募集を開始。
11社はBTRON案、NECはMS-DOS案を提出。11月にCECがBTRON採用を正式決定。

1988年3月:CEC試作機公開展示
3月、CECは各社の試作機を公開。NECは5月に試作機を提出。

1988年7月:CECによる試作機公開展示

私は雑誌で知りましたね。たぶん1988年3月のCEC試作機公開の記事だったと思います。特徴的なTRONキーボードが記憶に残ってますね。

その後有名なTRON潰しが始まる(と一般的に思われてます)

孫正義氏の立場からTRON潰しは氏が主導したという都市伝説があります。
(当時の日本ソフトバンクは米国製パソコンソフトの卸・流通業が本業で、日本独自のOSが普及すれば、その流通ビジネスが成り立たなくなるという謎解釈)

反TRON活動の証拠?
CECの選定取り消しについては、大下英治『孫正義 起業の若き獅子』によれば、かねてより自社の事業であるソフト流通業が儲かるような業界態勢作りに腐心していた孫正義により、TRONによって日本の産業がグローバルスタンダードから外れ世界に取り残されると煽って、棚橋祐治(当時通産省機械情報産業局長)、林良造(当時同局情報処理振興課長)らと「TRON壊滅へのレールが敷かれはじめ」ていた。スーパー301条を楯にプロジェクトを潰してしまえという孫によるアドバイスにより、通産省は学校へのTRON導入を中止したという。同書の見出しには「TRON蔓延を水際で阻止」とある。

坂村健自身の証言(2014年 TRON Symposium記者会見)
「風評的な被害を受け、他国から日本は(BTRONを)やめろという空気が流れた。当時はMicrosoftの圧力だといわれたが、同社は(TRONプロジェクトの)協賛メンバーでもある」と坂村氏は噂を完全否定。「大人げないため、ここでは語らないが、(発表会で配った雑誌「TRONWARE」を手に)ここで書いた」と述べた。

2003年4月にNHKで放映された「プロジェクトX」第111回『家電革命 トロンの衝撃』において、マイクロソフト社の陰謀があるかのような報道がなされたが、坂村の友人で当時TRONにWindows CEを移植していた日本マイクロソフト元会長の古川享は「悪質な印象操作」と断じ、実際にBTRONの発展を阻害したのは通産省の官僚とマスメディアによる印象操作であると述べた。

当時は日米摩擦の真っ最中で土地バブルによる資産効果もあって米国に「日本脅威論」が流行っていた時期。その騒ぎのなかでTRONが標的の"一つ"として狙われたのは事実です。日本側の官民も足並みが揃ってなく、様々な思惑が渦巻いていた時期です。

ですが、米国側もけっして一枚岩では無いです。
日本と違って、米国では様々なシンクタンクが繋がりのある財界人や政府機関、政治家に己の戦略レポートを売り出してます。「ジャパン・バッシング」は当時のシンクタンクや著名人の"流行"でもあり、数ある"ネタ"の一つでしかないです。(要はビジネスのネタ)
※注釈

私の愛読していた雑誌「Oh!X」で酷い扱いをTRONは受けていたことは確かです。
様々なコラムやページ端の落書きコメントなどで。そしてそれは、ほぼ難癖であったことも憶えてます。

その頃私は、高校入学祝いと自分の貯金やバイト代で中古のX68000を購入し、GUI環境を備えたHuman68kをさわり、対抗機のFM TOWNSではMS-DOSベースのGUI環境が実装されていました。

それらはいずれもプリエンプティブマルチタスクではありませんでしたが、実用上問題の無いレベルでした。
一方、OS-9やAmigaOSはプリエンプティブマルチタスクOSでしたが、その潜在能力を本格的に活かしたソフトウェアは限られていました。

TRONプロジェクト全体の設計思想は、最初からプリエンプティブマルチタスク+リアルタイム性を中核としていましたが、当初からそれを活かせるソフトウェア資産を築ける目処は無かったのです。

ソフトが無ければPCはただの箱です。設計が見事でも、ソフトウェアが揃わないOSには本当に意味がありません。

まとめると、
TRONというコンセプトありきのOS構想に官民合同の産業開発モデルが乗っかり、日米経済摩擦のネタにされた。
その設計思想は当時のOS発展の潮流上にあり、特段高性能で独自設計のOSでもなかった。

という、なんとも面白くともなんともない結果になりますね。陰謀論者には面白い題材かもしれませんが。


ひとまず区切ります。
テクノロジーというのは錬金術ではないです。その当時の技術水準を超える物は実現できませんし、コンセプトを先進性と語るなら、ガラケーのタッチスクリーンモデルはiPhoneよりも先進性があり、至高の物と捉えなければなりません。
技術は人々に使われて初めて活かされる存在なのです。


注釈

1980年代後半、米国では「日本修正主義者(Japan Revisionists)」と呼ばれる知識人グループが台頭し、次々と著書やレポートを発表しました。

主要な人物と著作:
チャルマーズ・ジョンソン(UCサンディエゴ教授):『MITI and the Japanese Miracle』(1982) — 通産省の産業政策を「ソフトな権威主義」と分析
クライド・プレストウィッツ(元USTR交渉官→自身のシンクタンク設立):『Trading Places』(1988) — 「日本にリードを許した」と警告
ジェームズ・ファローズ(The Atlantic記者):「Containing Japan」(1989年Atlantic誌)、『More Like Us』(1989) — 日本「封じ込め」論
カレル・ヴァン・ウォルフレン(ジャーナリスト):『The Enigma of Japanese Power』(1989) — 日本を「舵取りのいない社会」と描写

これらの論者は「日本修正主義者」と呼ばれたが、修正主義者たちは「ジャパン・バッシャー」というレッテルを拒否し、実際にはかなり多様な見解を持っていました。米国側には従来の「日本は成熟した民主主義国」とする主流派(ハーバード大のエドウィン・ライシャワーら)もおり、修正主義者との間で論争がありました。一枚岩どころか知識人間で激しい議論が交わされていました。

1980年代、米国の製造業の衰退が主要な政治問題として浮上するなか、自動車、半導体、建設、牛肉・柑橘類、通信機器など多くの分野で摩擦が激化した。TRONはこれら無数の摩擦案件の一つに過ぎません。半導体協定(1986)、自動車の自主規制、建設・公共事業の市場開放、牛肉・オレンジ自由化、FSX戦闘機共同開発問題、スーパーコンピューター調達…等々の中の、それも小さな一項目でした。

この時期のベストセラーには日米摩擦をテーマにした本が溢れました。1991年には『The Coming War with Japan』(日本との来たるべき戦争)という本がベストセラーとなり、20年以内に日米が武力衝突すると予測した。 Timeさらに1992年にはマイケル・クライトンの小説『Rising Sun』(ライジング・サン)も大ヒット。文字通り「流行」として消費されていました。

補足:日本側にも同構造があった
石原慎太郎・盛田昭夫『「NO」と言える日本』(1989)が日本でベストセラーになるなど、日本側にも「アメリカ・バッシング」的な言説が流行していました。